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2009-07-27 [月] ジョン万次郎と日野原重明先生の熱い思い

_ ジョン万次郎と日野原重明先生の熱い思いと志

_ 先般日野原先生とお話しする機会があり、丁度三日前に米国マサチューセッツ州のジョン万次郎記念館の開館式典から

帰ってこられたとことのこと、日野原先生(聖路加国際病院理事長)が発起人となって、ジョン万次郎の生き方、志に共感する日野原先生が

老朽化したホイットフィールド船長の家(ジョン万次郎が養子になり学校にも行かせてもらった大恩人)を買い取り・修復されたものです。(先生の熱心な呼びかけで胸を打った関係者の寄付もあり、一億円超が一年半集まる)

_ ジョン万次郎が日米大使の第一号、今から182年前(文政10年)日本の鎖国国時代、土佐の中浜の貧しい漁師の次男で15歳

漁の手伝いで遭難し手、5日半漂流後奇跡的に無人島に着き、143日の凄惨な生きのびる生活をしていたところへ、アメリカの捕鯨船ジョン・

ハウランド号に助けらる。

_ 大変真面目で勤勉なことから、ホイット船長の養子となり、勉学に励み、英語・数学・測量・航海術・造船技術等沢山の知識と経験を身につけ、10年後金鉱で働いたお金で船お買い、ハワイ経由で土佐に帰ってきました。(25歳)

_ 当時は鎖国のため脱藩・国抜けは死刑でしたから命を懸けた勇気ある行動でありました。

_ 少しずつ土佐の志のある若者たちに伝わり(土佐藩の絵師河田小龍を通じ)アメリカの自由民主主義と文明文化の凄さを

知るようになり、時あたかもぺりー来襲で日本が大混乱になったことから、幕府の通訳として認められ、後に咸臨丸に乗り

勝海舟・福沢諭吉・板垣退助など沢山の俊英を連れてサンフランシスコに行くことになります。(福沢諭吉20歳をはじめ殆どの俊英が20歳代)

_ 坂本竜馬の船中八策や貿易、靴を履き、ピストルを持ったりしたのも、そして福沢諭吉の学問のすすめ、岩崎弥太郎の

三菱も存在がなかったかもしれません。

ジョン万次郎が遭難しなかったら・・・・現在の日本はどうなっていたか想像することもできません。

_ 万次郎を取り巻く人達によって日本は覚醒し,歴史は大きく動き、近代日本の夜明けを迎えることが出来た、日本最初の

日米大使であったと日野原先生が記念館を作られるお話を熱っぽく語られたのに感動と感激を覚えました。

_ 凄いですねー、日野原先生98歳、お話をお聞きするだけで熱い血がたぎってきます。羨ましい人生だと尊敬いたします。

それにしても坂本竜馬・勝海舟・福沢諭吉の20歳代の皆さんの国を思う志・勇気・行動力など素晴らしい!の一言です。

_ 二度と来ない人生、繰り返しのきかない生涯、こんな生き方が出来たら最高の感動だろうと感じます。

尊敬する日野原先生ありがとうございました。

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